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NPO法人弱視の子どもたちに絵本を

数学教育は必要か

 数学は実生活において役に立たない。

 これが、数学嫌いが口をそろえていうことである。

 これに対する教師の一般的な回答は、「数学は論理的思考力を身につけ、抽象的な物事を想像するトレーニングである。」というものだ。

 あなたはこれに納得することができるだろうか。

 実のところ、数学好きである私にも、これに納得することはできない。

 おそらく、教師たちのいうことはある程度正しいのだろう。数学教育が全くなければ、我々は重要な思考のプロセスを学ぶ機会を失ってしまい、人間の知恵は低下して、文明は停滞するかもしれない。

 だが、「そんなことを言われても納得できない。」というのが、大半の人の意見であろう。私も、「そんな抽象的なことを言われても…」と思うし、それを聞いたから数学へのモチベーションが上がったということもない。

 では、数学は生きていく上で必要ないのだろうか。

 このようにいっては身も蓋もないが、数学は生きていく上では全く必要ない。少なくとも、プロでもない限り、数学が直接的に金に成ることはないだろう。数学を必要としない仕事など、掃いて捨てるほどある。つまり、殆どの人にとって、金に成るかどうかで判断するならば、数学を学ぶのはただの時間の浪費である。

 だがしかし、殆どの人が生きていく上で必要ないからといって、数学を学ぶ必要は本当に皆無なのだろうか。

 仮に、数学のない世界を想像してみよう。

 その世界においては、数学を根底に持つ科学は発展しない。よって、パソコンやスマホなどの精密機械はもちろん、電車や車などの交通機関や身の回りの電化製品なども、存在しない。そのような世界は、我々全員にとって不便であろう。私がこの記事を投稿できるのも、数学のおかげであるし、あなたがこの記事を読めるのも数学のおかげなのである。

 このように考えると、数学が直接的に我々を助けてくれないとしても、我々がその利益を教授しているのは間違いないのである。

 これを読んだあなたは、「人の役に立つような発明をするのは、限られたごく一部の人のみである。」と反論されるかもしれない。

 たしかに、その意見は至極最もである。数学を学んだ人間のうち、それを人のために役立てられるものはごく一部だ。しかし、決して0ではない。これが重要である。数学教育は、その0ではないものに数学を人々のために役だたせるための準備という意味を持つと思う。

 それでは、そのような才能を持たない人間が数学を学ぶことは、全くの無駄なのだろうか。

 現実的な話をするならば、学歴はある種のステータスとなる。学歴は、人々の能力を測る一つの指標と成りうるからだ。そして、良い学歴を得るために数学を学ぶことは不可欠である。

しかし、私はそのような淋しい理由が全てではないと思う。

 数学の歴史は実に長い。その始まりを明確に示すのは難しいが、古代ギリシャはその一つの候補に成り売ると思う。ただし、私はその種の専門家ではないし、資料に基づいた厳密な分析を行っているわけではないことは、ここに明記しておこう。

 もともと、数学は生活に密着したスキルとして誕生した。貿易のためにはお金の計算が必要だし、農業のためには土地の測量も必要になる。ピラミッドのような正確な建造物の建築にも、数学は欠かせないだろう。何より、ものを数えるという行為自体が、数学の一種である。

 しかし、古代ギリシャにおいて、数学は生活のスキル以上の地位を獲得した。古代ギリシャで学問として研究された数学は、生活を向上させることを目的としていなかった。数学それ自身の織りなす世界に魅了された人々が、ただ好奇心を満たすために数学を研究したのだ。

 数学は役に立たない。多くの人にとって、それは事実である。

 しかし、役に立たなくてもかまわないのではないだろうか。数学の世界は興味深い。それは、必要性に駆り立てられるのでもなく数学が発展したことが証明している。

 数学に興味がないものにとっては、それを学校で強制的に学ばされることは納得できないかもしれない。しかし、数学は、古代から人々が積み重ねてきた知恵の文化遺産である。それに触れる機会を亡くしてしまうのは、あまりにもったいないのではないだろうか。

 なぜ数学を学ぶ「必要」があるのか。この意見は、その問に対する答えにはなっていないかもしれない。しかし、数学を学ぶ「意義」とは何かという問に対しては、十分な回答を与えていると思う。。