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NPO法人弱視の子どもたちに絵本を

数学好きはなぜオタクと思われるのか

 数学は美しい。

 あなたがおたくだと思われたいのなら、これほど効果覿面な言葉はないだろう。

 友達のできない魔法の言葉、「数学は美しい」。

 だがしかし、なぜ数学に限って「美しい」と評すればおたく確定になってしまうのだろうか。

 例えば、音楽が美しいのは、多くの人間が共有できる認識である。人によって好みはさまざまだが、一般的に音楽というくくりで見るとき、何の知識も持たない人間でも、音楽を美しいと感じることができる。少なくとも、多くの場合、美しいと感じる音楽を見つけることができる。そうでなくても、音楽を美しいかどうか論じる対象として認識している。それは、人が音楽を聴く主目的は、その美しさを楽しむためだからであろう。

 それに対して、人が数学を学ぶ主目的は、テストで良い点数を取るためであろう。多くの人が、数学をその美しさを楽しむ対象としてではなく、その難しさを打破しなければならない存在として捉えている。しかも、始末の悪いことに、数学の美しさというのは、音楽の美しさほど一目両全なものではない。一度心を閉ざしてしまえば、理解することのできない、そんな類のものなのだ。

 それでは、数学の美しさとは何だろうか。人々はいつ数学輪美しいと感じるのだろうか。

 私の意見では、数学の美しさは、普遍性、対称性、単純性によって構成されている。

 普遍性とは、数学の魅力の記事でも解説したとおり、数学の絶対性を示している。数学をある種の建造物に例えるならば、これはその建造物が非常に堅固で、決して崩れることがないことを示している。

 対称性とは、まさに美そのものである。数学の世界は完璧で、全てが調和している。数学は、どの世界遺産よりも乱れのない、厳密かつ芸術的な建造物であるといえよう。

 単純性とは、数学の構造が完結でわかりやすいことだ。数学は、最初にいくつかの命題(数学的事実)を仮定すれば、それだけでその論理的帰結として、数学が得られるのだ。つまり、数学はいわば、有限の材料を与えれば自ら無限に成長していく、魔法の建造物なのである。これほどシンプルかつ奥深いものがほかにあるだろうか。

 これを読んで、数学の美しさを理解していただけただろうか。おそらく否であろう。「何かすごいことをいっている変人がいる」というのが関の山だと思う。

 しかし、私の主張が正しいことは、本連載を読んでいけばわかるは図だ。「そんなはずはない。」と思われる方は是非、本連載を最後まで読んでみてほしい。